2007年03月21日

落語三遊塚

木母寺は謡曲「隅田川」をはじめ歌舞伎や舞踊など多くの芸能に影響を与えた、梅若伝説にゆかりのお寺。
創建は平安時代中期の貞元2年(977)で、信夫藤太(しのぶとうた)という人買いに欺かれ、この地に命を落とした梅若丸を弔うために天台宗の僧、忠円阿闍梨が塚を築いたのが創建の由来ということだ。

現在、寺は元の場所から150メートルほど隅田川よりの、防災団地と堤防に囲まれた白髭防災拠点の中に移されていて、梅若伝説を伝える梅若堂は、防火上の必要から巨大なガラスケースに覆われ、ちょっと不思議な光景になっている。

ここはまた芸事に御利益のあるお寺として多くの芸能関係者の信仰を集めているそうで、芸能に関する石碑もいくつかある。
そのひとつに三遊亭円朝が明治22年に建立したという三遊塚があって、師匠の円生の追福を祈念して建てたものだと伝えられている。
もっとも、明治20年代といえば落語界が三遊派と柳派に分かれて覇を競っていた時代でなので、三遊派の発展を祈願するという意味合いが強いのではないかと思う。
(ちなみに柳派は同時期に同じ区内の法性寺(墨田区業平5-7)に「昔ばなし柳塚」を建てている)

落語三遊塚

(木母寺:墨田区堤通り2-16-1)

posted by Tsu55 at 2007年03月21日 20:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 落語

2007年03月18日

ユリカモメ

伊勢物語の

白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥(みやこどり)」といふを聞きて、
  名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

というのはおそらくこのユリカモメのことなのだろう。

ユリカモメ

そのユリカモメを近ごろ隅田川でよく目にする。
しかも、人によく馴れているようでカメラを構えて近寄っても逃げようともしない。
私の子供の時代、―終戦間もないころから経済高度成長期―には隅田川はコンクリートのカミソリ堤防に覆われ、ヒトと水鳥が親しく交わることなど考えられなかった。ユリカモメなんてどこにいるかも分からなかった。

様子が変わったのは、親水テラスができてからで、川辺を散策する人や青テントの住人が餌をやるようになって、すっかり水鳥と人間との距離が縮まった。
両岸の街には大小のビルがひしめき合うように立ち並び、空を狭めている。「身をえうなき者に思いなして」都を出て行った旅人が望郷の思いにかられた、うら寂しい隅田川の景色は今はもう無い。が、川の上だけは大きく空が開け、ユリカモメも自由を満喫しているように見える。

posted by Tsu55 at 2007年03月18日 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 水辺の生き物

2007年03月04日

平賀源内の墓

明治通りの白髭橋西詰め付近から少し入った町工場や商店などが立ち並ぶ、ちょっと寂しげな町並みの中に、本草学者で科学者で戯作者でもある平賀源内の墓がある。
説明書きによると、ここはもともと総泉寺というお寺の敷地で、その中に源内の墓があったそうだ。

平賀源内の墓

関東大震災により寺は消失し、その後区画整理によって板橋に移転することになったが、これを惜しんだ人々がせめて源内の墓だけでも残したいと運動を起こした結果、現在のようになったという。

墓域内は狭いが緑が多く、別世界のようだ。
かつてこの辺りが浅茅が原と呼ばれていた頃の鄙びた雰囲気が、この狭い空間に閉じ込められている、そんな気がした。

平賀源内墓(総泉寺跡):台東区橋場2−22−2

posted by Tsu55 at 2007年03月04日 23:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 隅田川ゆかりの人